2023/06/08
木下名古屋工業大学の木下学長のこのあいさつ文を
読んで心打たれる思いがしました。
僕が高校3年生だったら、こんな温かいハートを持つ大学に
憧れること間違いなしです。
学長の言葉(アートフルキャンパスに寄せて)
名古屋工業大学では「アートフルキャンパス構想」の下、アートあふれるキャンパスづくりが進んでいます。今回は、これに至る経緯をご紹介したいと思います。
20年ほど前に大学執行部に入り、学外での会合等に参加する機会が増え、多くの方にお会いし、様々な言葉に出会いました。
その中に、何年経ても忘れられない言葉があります。
最初にご紹介したいのは、2003年の豊田工業大学30周年記念講演会です。
大阪大学元総長の鷲田先生による「良い専門家とは」と題するご講演をお聞きしました。
火山活動が活発化した地域の住民が、危機管理対策の一環として、いわゆるその道の専門家を雇用したのですが、予期に反し噴火の被害に遭ってしまったのです。
直後に駆けつけたマスコミから「こういった結果になってしまい、皆さんが雇われた専門家を訴えますか?」と投げかけられました。これに対し、住民は「いえ、訴えません。何故ならいつも一緒に私たちのことを考えてくれたし、我々が盆正月に飲んだくれている時も、あの方は毎日毎日火口を覗きに行っていたことを私たちは知っているから」と返したのです。
この話には、二つのご指摘があったのではと思っています。
まず、「専門家である前に人間として信頼されること」。
それが良い専門家としての第一条件ではないかと。つまり、噴火の予知という専門家のミッションは果たせませんでしたが、日ごろから住民はこの専門家の振る舞いや後姿に人間としての信頼を読み取っていたのです。
もう一つは「先生はいつも一緒に私たちと考えてくれた」。つまり困っていることや分からないことを問い掛けると、自身の知識や考え方で住民をその都度納得させたという点です。専門家の知識や能力はみんなのものであり、共有化しなくてはならない。つまり、自分の能力すら私物化してはいけないというご指摘です。
2022年4月からスタートした第4期中期目標・計画には、ガバナンスやコンプライアンスの基本コンセプトとして「学生・研究費・設備装置の脱私物化」を盛り込みました。新任教員研修会でも毎年強く訴えています。学生も研究費も一時的に預かっているもの。学生は成長して社会にお返しするし、研究費は研究成果として還元していく。そういうお話をしています。
学生を私物化するとハラスメントにつながります。これに関する調査委員会に長年接してきましたが、被害学生のヒアリングでは、教員による私物化が原因と見られるケースが多々ありました。学生をデータ製造ロボットのように扱っていないだろうか?といった教員側の自問自答が脱私物化の入口かもしれません。また、研究費を私物化すると不正使用につながります。「俺の金」から「お預かりしている研究費」へのマインドシフトが大切です。従って、研究費で購入した設備装置は当然みんなのものですし、学内外の研究者に使っていただくことによって装置の価値を上げていく。設備装置の共有化も脱私物化のコンセプトに基づいて少しずつ浸透させていきたいと思っています。
講演の最後に、鷲田先生は「皆さんの能力は自分のものでも、家族のものでも、所属している大学のものでもなく、社会のために使うべきものだと認識してください」という言葉で締めくくられた記憶があります。
二つ目は、「心を使って工学をする」。
2003年日本電気工業会の新年の互例会での出会いです。
新春の法話のためご出席の、あるお寺のご住職が懇親会開始直後にすっと近づいて、
「先ほどの自己紹介を聞いていると名工大ですから工学の関係者の方ですよね?」と問われ、
「はい、そうです」と答えると、
「一つお願いがあります。20世紀は頭を使って工学をなさっておられたと思いますが、21世紀はぜひ心を使って工学をしていただきたい」
と託されました。
今世紀に入り人工知能が台頭してきている。人間を置き去りにした技術やテクノロジーの発展・進化を危惧しておられました。
この言葉もいたく心に刺さり、ずっと引きずってきました。
三つ目は、「真心はミサイルよりも強い」。
20年ほど前、産官学連携の意見交換会で、ある中小企業の会長さんと出会いました。
空襲を受けて焼野原になった名古屋を、生き残った兄弟3人で何か使えそうなものはないかと歩いていたらネジが落ちていた。そのネジを拾い上げると運命的なもの感じ、これでやっていこうと決意されたそうです。
その言葉に続けて「私が一代で今の会社を築けたのは、これまで関わった皆さんに真心で接したからだ。人を動かすのは言葉ではなく、木下さん、心だよ。真心はミサイルよりも強い」と語って下さいました。
衝撃的で愕然と立ち尽くしました。
このような出会いがあり「心で工学」が、21世紀は極めて重要になると確信いたしました。
ここまでの内容は、実は全て学長の代理出席、つまり偶然出会った方々からのメッセージです。それらが忘れられない言葉となり、大学の運営の仕方にも繋がっている。もしこれらの偶然が重ならなかったらと思うと、少し複雑な気持ちにもなります。
ここで、もう一つ申し上げたいのは「忘れることの大切さ」です。忘れようとしても忘れられないこと、忘れられなかったことこそがその人にとって真に意味がある。その人にとって必要であり本質的なものではないかと思っています。
夢を抱くのも大変な時代だという言葉も聞かれます。膨大な情報が氾濫し、情報を記録・記憶する媒体が日用品化されているため、本来必要ではないかもしれない情報に余儀なく取り囲まれています。忘却のフィルターを通すチャンスが奪われているのです。
例えば、受験勉強という人生の一大イベントがあり、覚えることが善で忘れることは悪ということが無意識に刷り込まれているのも一因でしょう。
忘れるという作業をして、それでも忘れられなかったことを見つめ、それらをつなぎ合わせていくと、自分は何を求め、何をしたい人なのか、ひょっとしたら夢にまでも辿り着きやすくなるのでは、と考えます。
最後にご紹介したいのは「どん底」。
1950年代の後半、戦後間もない頃、近所のおばちゃんの井戸端会議から漏れ聞こえた「私たちはこの間の戦争で『どん底』を見たから、もう何を見ても驚かない」というような会話です。
4,5歳で耳にした「どん底」が幼いながらに心に刺さっていました。
大人になってからですが、この言葉が励ましの合言葉になって、日本は奇跡的な復興を遂げたのではないかと想像いたしました。
「バブルの中にいた日本人は、誰もバブルを自覚できなかった」という話があります。バブルが弾けて、初めてバブルの中にいたと気づく。怖い話です。
現状は「茹でガエル状態」のようです。
戦後、奇跡的と言われる復興で、どん底から宙に舞い、バブルに入って、今は茹でガエル。
原点としてのどん底から足を離した瞬間から正確な現況把握は遠のいていったのでしょう。
現況を冷静にグリップしたり自分を客観視する時には、どん底のような原点を定位置として、そこから見える真の姿・本質を捉えようとする努力が大切だと考えます。
バブルが弾けて10年後の1999年~2000年にかけて約1年間、カリフォルニア工科大学のデイビッド・ティレル教授の研究室にお邪魔いたしました。以前から、彼の研究には興味を持っていたので、論文博士を取得した32歳の段階で最初のアプローチをしました。
「いいよ」と言われ、年俸まで決まったのですが、諸事情があり一旦断念いたしました。
15年後、再度のアプローチでも「何も問題ない。来てくれ」でした。
「ただしUMass(マサチューセッツ大学アマースト校)からカリフォルニア工科大学に変わったので行き先はCaltechだよ」と言われ、そちらにお邪魔しました。移られたばかりで、研究室立ち上げの現場を横目に、組み換えDNAの手法をマスターすることができました。それ以上に、研究室にいた若手研究者との出会いが後に意味を持つことになりました。これも運というか、最初のUMass行がダメになったから出会えた若手研究者といえるわけです。
彼らは、週末に飲み会をやっていました。しばらく私は断っていました。
DNAの仕事は、具体的には大腸菌のお世話です。大腸菌の生活リズムに合わせるというのは時間的にも大変なので飲み会どころではありません。ところが懲りずに何度も誘われ「今出ないとハッピーアワーに間に合わない」といってオールドタウンへの無料バスに押し込められました。
ネイティブ同士の会話にはついていけなかったのですが、アルコールが入って会話のハードルが下がった頃に「どん底」の話を出しました。
その時に「どん底すらも客観視しないと、原点の揺らぎが見えないよね。だからどん底の少し下に身を置いておくんだ」として「Under the bottom」と言いました。「Under the bottle?」と聞き返すので「いやいやUnder the bottomだ」を繰り返しつつ、日本の戦後からバブル崩壊までの話をして「なるほど」となりました。
2019年の年末に近づいたころ、名工大で国際シンポジウムを行ったときのことです。
本学の幹事の先生が、スタンフォード大学教授になっていた飲み仲間のマークに招待講演を依頼していました。
突然、マークからメールが届き(隆利なのでトシと呼ばれています)「自分に講演しろと仕掛けたのはトシなのか?」と聞かれ「いや違う違う」と返したら、「じゃあ講演が終わった後に飲む時間はあるか?」と来たのでこれを快諾して話がまとまりました。
シンポジウム・懇親会も終了し、二人で名古屋市内の居酒屋を訪れました。延々と懐かしい話を交す最中、マークから突然「Under the bottom」が飛び出しました。20年経っていますから私は耳を疑い「Say again, please」を何度も繰り返しました。
「トシが日本に帰ってから時々この話が出た。仕事がうまくいかなくなる時など、この『Under the bottom』の話を思い出し勇気づけられている」というのです。感激と同時に、当時の飲み仲間との固い絆を実感しました。
シンポジウムの懇親会で、どなたかがマークに「来年の4月から木下学長になるよ」と話をしたらしく、「就任祝いをするから、ぜひスタンフォードに来い」と言われ、その後もメールでの誘いが続きました。
20年越しの「Under the bottom」の一言が渡米を決意させました。
カルテックでの飲み仲間のうちマークを含め3人が、偶然、スタンフォード大学の教授になっていました。お祝い会はティレル研のミニ同窓会。大いに盛り上がりました。
翌日、「せっかくだから、スタンフォード大のキャンパスを見学しろよ」ということになりました。美術館が二つ、コンサートホールが野外も入れて三つありました。パプアニューギニアの住民の生活を再現した森もあり「ここでよく瞑想する」そうです。
ロダンの彫刻が数体並ぶ広場もありました。学生さんたちがペタペタ触って表面がつるつるになっていて、元気をもらいニコニコしているわけです。美術館、コンサートホール、瞑想する場など「大学の研究・教育には、こういう仕掛けが大切だよ」と言われました。
スタンフォードのキャンパスに立ち、「心で工学」を育むに相応しいアート溢れるキャンパスを作ろうと思い立ちました。
帰国後、具体化の第一歩として愛知県立芸術大学の戸山学長にお会いいたしました。
単身、乗り込んで思いの丈を語り「御器所が丘にアートの風を送ってください」とお願いをしたところご快諾いただきました。とても幸運でした。
「ARTFUL CAMPUS-御器所が丘にアートの風を-」というプロジェクトの下で計画的に事が進み、2022年の4月1日に本学で包括的連携に関する協定書締結式を行いました。音楽科の桐山教授にバッハの「シャコンヌ」を生演奏していただき、芸術大との連携に相応しい式典になりました。
アートフルキャンパスの事例として、まず壁画に取り組みました。県芸大の学生さんのデザインを基にして両校の学生が共同制作しました。粉雪が散る中、黙々と作業する姿に頭の下がる思いがしました。現在三つのビルで完成し、壁画空間が出来上がりつつあります。
県芸大の作品も導入されていて、会議室や図書館の入り口付近など、以前ちょっと暗い感じだった場所もとても明るくなりました。総合研究棟の4号館では、エントランスの壁細工や2階の吹き抜け部分にはタペストリーを掲げていただきました。奥にはホールがあるので、イベントを開催するときなど、外来者はアートの中を通り抜けていくことになります。
学内からも声が上がっています。これは想定外でした。
「サイエンスアートゾーンを作りたい」等々の要望です。
学外から作品を導入すると、学内のアート心に火が付く。とても嬉しい学びになりました。
経緯を振り返りながら気付いたのですが、代理で出た席で、偶然に出会った言葉を組み合わせただけの話なので、自身のオリジナルは皆無ではないかと。年月という一番効率の良い忘却フィルターを通り抜けた言葉を繋ぎ合わせているだけです。
以前、私は混合物から有用な物質を取り出す高分子分離膜の研究をしていました。まるで人間は膨大な情報や言葉の中から自身に必須のものを振り分けるフィルター・分離膜なのかも知れません。
心に残る一連の言葉に触発された「アートフルキャンパス構想」の経緯をご紹介いたしました。
アート溢れるキャンパスを培地として「心で工学」がすくすくと成長することを願っています。
国立大学法人名古屋工業大学 学長
木下 隆利
2022年10月28日に行われた「国立大学法人等監事協議会第35回東海・北陸支部会」に於ける講演内容を要約・加筆したものです。